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このテキストはティク・ナット・ハン師の未邦訳著書の一部で、バンブーサンガの瞑想会の修練資料として使用したものです。会に欠席された方のためにアップいたします。

 

At Home in the World  by Thich Nhat Hanh

Sep 9,2018 

バンブーサンガ@大念寺

At Sea on Solid Ground  かたい地面の上の海(池田 久代 訳)

 だいぶ昔のことですが、私は和紙のランプシェードに四文字の漢字を書きつけたことがありました。この四文字は、「平和を望むならば、平和はその瞬間にあなたと共にある」という意味です。それから数年たった1976年に、シンガポールでこの言葉を実践するチャンスが訪れました。


 シンガポールで「宗教と平和」という会議に参加していたときのことです。国の迫害や暴力を逃れようと故郷を捨てたヴェトナム難民が「ボート・ピープル」と呼ばれていたことを私はそのとき知ったのです。当時、ボート・ピープルはまだ世の中で知られておらず、タイ、マレーシア、シンガポールの政府は彼らの上陸を阻んでいました。シンガポール政府の対応は特に厳しいもので、ボートに乗った難民は上陸しようとするたびに海に押し戻されて、命を失っていました。


 数人の仲間と私は難民の救出作戦に乗り出し、これを「血が流れるとき、みなが苦しむ(流血皆苦)計画」と名付けました。まず、外洋に漂う難民を救出するために、二艘の大型船—レプダル号とローランド号—、次に、大型船と岸を往復して通信業務や食料・生活物資を運搬する二艘の小型船—サイゴン200号とブラックマーク号—を調達しました。私たちの計画は、大型船に難民を乗せて、オーストラリアかグアムに運び、到着するとすぐに報道陣に情報提供するというものでした。こうすれば難民の苦境が公になって、送還されることがないだろうと考えたのです。慈悲について語るばかりでは十分ではありません。慈悲の仕事を実践しなければなりません。これは極秘の仕事でした。ほとんどの国の政府は、ボート・ピープルの現状に目をつぶっていたので、もしこの計画が露見したら、私はシンガポール退去を命じられることは必至でした。


 タイのシャム湾から800人近いボート・ピープルを救い出すことに成功した大晦日の夜、私はサイゴン200号を海に漕ぎ出し、救出された難民に会いに大型船に向かい、メガフォンを使って「新年おめでとう」と彼らを祝福しました。別れを告げて岸に向かっていると、闇の中で突然、私は大波をかぶってずぶ濡れになったのです。巨大な闇の力に警告されたような気がしました。「彼らが死ぬ運命にあるのは必定だ。なぜお前はそれを邪魔する」と。


 シンガポールでは、ボート・ピープルを助けたければ、法を犯すより他に道がなかったのです。私たちは漁師の家を尋ねては頼んで回りました。「ボート・ピープルを助けたら、すぐに、知らせてください。すぐに駆けつけて難民を引き取ります。助けてもあなた方が処罰されることはありません」。電話番号を渡しておいて、漁師から電話が入ると、すぐにタクシーで駆けつけて難民を引きとり、その足でフランス大使館に連れて行くのです。夜間は大使館が閉館しているので、難民に敷地内に入って朝まで待つように言っておいて、皆で壁をよじ登る手伝いをしました。


 当時、シンガポールのフランス大使はたいへん寛容でした。朝、敷地内でボート・ピープルを見つけると、シンガポール警察に通報して身柄を引き取らせます。ボート・ピープルの身柄を引き渡したら、彼らは「不法難民」となり、投獄されて身の安全が保障されることを大使は知っていたのです。海に連れ戻されて死を待つより、投獄された方がはるかに安全でした。


 このような仕事から受ける苦しみはあまりに重く、私たちに精神の強さという貯水池がなかったら、とうてい続けていくことはできなかったでしょう。私たちは全身全霊を傾けて坐る瞑想や歩く瞑想、沈黙の食事をしました。このような練修をしなかったら、とっくに挫折していたことでしょう。多くの人々の命が、私たちのマインドフルネスの練修にかかっていました。


 800人近くの難民を海上の小型船から大型船に移し終わったあと、不運なことに、ローランド号とレプダル号で難民をオーストラリアに輸送する計画がシンガポール政府に露見しました。朝の2時に、シンガポール警察は私が宿泊していた建物を取り巻きました。二人の警察官が玄関側、もう二人が裏口を封鎖し、二人が建物の中に入ってきました。彼らは私のパスポートを没収して24時間以内の国外退去を命じたのです。


 800人近い難民の二艘の大型船への収容はすでに終わっており、オーストラリアかグアムのどこかに彼らを安全に送り届けなければならない。道は閉ざされた。できることは、ただ深く気づき、呼吸の練修をすることだけだった。深夜に電話に応答してくれる人もなく、眠ることもできませんでした。小さなアパートの中で、私たちはひたすらゆっくりと歩く瞑想を続けたのです。


 サイゴン100号とブラックマーク号も、沖のレプダル号とローランド号の難民たちに水や食料を運べなくなり、ローランドはオーストラリアまでの十分な燃料を積んでいたものの、エンジンに不具合があった。食料の不足は必至だった。風は強く、海は荒れている。運よく出航できたとしても、船は危険にさらされる。マレーシア政府も自国の領海に入る許可を出さない。万一のために隣国に入港許可を申請していたので、救出作戦を続行するチャンスはまだ残っていたが、タイ、マレーシア、インドネシアは私に入国ヴィサを発行しない。そんなとき、一方のレプダル号の船内で子どもが生まれかけているという連絡が入ったのです。       

            
 私はこの安全な大地にいながら、彼らといっしょに海を漂っていたのです。私の命は二艘の船の800人の難民と一つだったからです。


 この極限状態のなかで、あの言葉—「平和を望むならば、平和はその瞬間にあなたと共にある」が蘇りました。驚いたことに、心は静まって恐れも心配も消えていました。私の心痛は霧散していたのですーそれは本当に静かで平和な心の状態でした。


 しかし、この窮状は、24時間以内に解決できるとはとても思えないほど膨大なものでした。人生が丸ごとそこにあっても、私たちは時間が足りないと不平を漏らします。24時間以内でこれほどのことをやるのはとうてい無理だった。私は腹を決めました。もしもあのとき私の心が平和でなかったならば、私は一生、平和な心をもつことはできなかっただろう。危機に瀕したそのときに平和になることができなくて、これから先の似たような事態のときに平和になっても意味がない。困難のまっただ中で平和になれないならば、永遠に本当の平和を知ることはない。私は生涯、あのときの坐る瞑想、あのときの呼吸、あの深夜のマインドフルな一歩一歩を忘れることはありません。


 ひたすら問題に対峙していたとき、突然、妙案が閃きました。朝の4時でした。フランス大使に調停を頼んでみようーシンガポールにあと10日残れたら、作戦を完了して難民たちを安全に救出できる!しかしフランス大使館は8時まで開きません。私たちは外に出て歩く瞑想を続けました。  


 午前8時に門が開くと、私たちは大使館の前にきていました。中に入って事態を説明すると、大使は事情を理解して、シンガポール政府に10日間の滞在許可を求める手紙を書いてくれたのです。その書簡を受け取るや、移民局に走り、移民局は外務省につないでくれました。正午直前に滞在延期許可が出て、残った15分で移民局に駈けもどり、やっとのことで、10日間のビザの延長が間にあったのです。この成功は、私たちのうちにある霊的次元の賜物でした。

 


 

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